レクリエーション運動の歴史

「低成長時代」の社会的課題に対応すべく、新たな胎動を示し始めた地域レクリエーション

1973年に起こったオイルショックは、経済のみならず、レクリエーション界にも大きな影響を与えた。

企業各社のレクリエーション予算の大幅な削減や、一気にダウンした成長率の影響で新規採用の中止や人員削減が進むと、もはやレクリエーションは若年層を職場につなぎとめるという意味を失い、職場レクリエーションに翳りが見え始めた。 それは、レクリエーション運動の転換をも意味していた。

1970年代

今まで栄華を極めていた職場レクリエーションは、オイルショックによって後退期へと入っていく。そのような中、企業各社では若年層の人間関係づくりに代わる中高年の健康づくりが新たな課題として浮かび上がってきた。
折しも、経済先進諸国は軒並み肥満や成人病の問題を抱えており、ドイツは「トリム」、西欧諸国は「スポーツ・フォー・オール」、アメリカは「フィットネス」、オーストラリアは「ライフ・ビー・インニット」など、国をあげての健康体力づくり運動が台頭していた時期であった。

日本も例外ではなく、国民の間で健康に対する意識が高まりを見せ始めていた。70年代の半ばにさしかかると、職場レクリエーション運動の重点も健康志向との関わりを強めながら「生きがいづくり」を目指す方向にシフトしていく。そして、健康づくりブームは、西ドイツにならった「トリム運動」へと発展し、職場における健康スポーツへの取り組みを象徴する言葉となって広がっていった。

ただ、戦後の日本のレクリエーション運動は、国民の生きる希望の糧としての側面を持つ一方で、アメリカの占領政策に端を発する、戦後処理の行政・施策上の対処と密接に関わっていたという事実も否めない。GHQ(連合国軍総司令部)のCIE(民間情報教育一方、高度成長期の生産性の向上が労働時間の短縮をもたらし、70年代初頭に週休二日制が普及し始めると、国民の余暇に対する関心が高まりを見せてきた。行政は「市民の余暇に対するサービス」という新たな地域課題を発見しようとしていた。先進的な地域の行政は、初めて行政課題として「余暇」に注目し、健康スポーツを意識したレクリエーション施設の整備や、地域におけるスポーツリーダーの養成、健康づくりを謳った多彩なイベントの開催などを視野に入れた「余暇行政」を推進し始めた。

また、高度経済成長期が大都市の過密と過疎化の進む農村という二極化を促進させた結果、かつての地域社会が崩壊し始め、改めて「まちづくり」が地域社会の存続がかかる重大なテーマとして意識されざるを得なくなった。レクリエーションは、地域の新たな健康づくりや文化的活動としても、祭りや郷土芸能などの伝統文化のとのつながりにおいても、まちづくり運動に欠かせないプログラムとして注目を集めるようになっていく。

社会的なニーズに応えるために、「職場」一辺倒から「地域」の再発見へと、その発想の転換と活動の場の拡大を迫られたのが70年代のレクリエーション運動の特徴であった。

監修:薗田碩哉(実践女子短期大学元教授)

参考文献

『レクリエーション運動の五十年』
(日本レクリエーション協会 発行・編)