レクリエーション運動の歴史

高度経済成長期時代の心の支えであった職場レクリエーション

1950年代にフォークダンスをはじめ、地域に広がりを見せたレクリエーション運動は、日本が活気を回復し、復興から新たな経済成長へ向かう1950年代後半から1960年代前半になると、総じて停滞状態に陥る。

その理由の1つに、行政の支援が終戦直後のように意欲的なものではなくなってきたことが挙げられる。アメリカ直輸入のレクリエーションに酔いしれる時期は去ったのである。代わって急速に広がっていったのが「職場レクリエーション」だった。

1956年の『経済白書』は「もはや戦後ではない」と指摘。神武景気(1955~1956)や岩戸景気(1959~1961)が到来し、日本は高度経済成長期時代へと突入していく。太平洋ベルト地帯をはじめ、各地には大規模な工場が建設され、多くの若者たちが近代的オートメーション工場の従業員となっていった。しかし、機械化・合理化が追求される労働環境において、人間としての主体性の喪失という新たな問題が浮上し始めた。そこで、企業がその対策として取り入れたのが「明るい人間関係作り」を強調した「職場レクリエーション」であった。

1961年に公布されたスポーツ振興法も手伝って、昼休みともなれば、工場の通路や中庭、空き地、がスポーツ広場に早変わりし、ひと汗かくことが推奨された。昼休みのスポーツ以外にも、社内旅行や運動会、休日を利用したハイキングなどが盛んに催され、職場レクリエーションは急速に広まっていった。

しかし、多くの企業では、職場におけるレクリエーションの必要性を理解していても、その推進の術を知らなかった。こうした社会の要請に応えるかたちで、日本レクリエーション協会は「職場レクリエーション・リーダー」と呼ばれる独自の指導者養成事業を開始する。「レクリエーション学苑」だ。

「レク学苑」は、1963年8月の第1期開催以来、開催回数は増え続け、60年代後半には月に1~2回程度の頻度で開催されるまでに需要が高まっていった。また、「レク学苑」とは別にリーダー養成を独自の内容で実施したいとする企業も現れ、企画・運営・指導を全面的に日本レクリエーション協会に委託するかたちも出現した。1972年までには、企業の委託による講習会なども含めると、職場レク・リーダーの養成は7万人を突破するまでに至った。

一方、企業の中には、職場レクを思想的なものに対する対策、生産性の向上のための手段や、若年層を職場に定着させるための労務対策として利用する企業があったのも否めない。個人の幸せが明るい職場作りにつながり、ひいては明るい社会作りへ発展することを願い、純粋な気持ちで職場レクを推進していたレク・リーダーにとっては、企業が求める職場レクのあり方とのギャップが大きな悩みとなっていた。しかし、今ではそうした職場レクの活用はすっかり影をひそめ、ほとんどが本来のねらいに基づいた展開がされている。それは、苦境に立たされながらも、情熱を持って職場レクに取り組んだレク・リーダーの大きな功績があったからである。

監修:薗田碩哉(実践女子短期大学元教授)

参考文献

『レクリエーション運動の五十年』(財)日本レクリエーション協会 編
『日本レクリエーション協会三十年史』遊戯社 編
(いずれも公益財団法人 日本レクリエーション協会 発行)