レクリエーション運動の歴史

戦後の荒涼とした社会に明かりを灯したフォークダンス

各年代には、時代を象徴するレクリエーション運動があった。それを一概に"流行廃り"と言うことはできない。世相を反映しつつ、人々の生活に足りない"何か"に手を差し伸べてきたのがレクリエーションだからだ。

今、私たちが取り組んでいるレクリエーション運動を、もう一度、見直すきっかけになれば...。そんな願いを込めながら、戦後から1950年代を象徴するレクリエーションを紹介する。

1945年8月15日、ポツダム宣言の受諾とともに、太平洋戦争が終結した。長い間、勝利を信じて疑わなかった人々にとっては、夢にも思わなかった敗戦の事実。茫然自失となるのも無理からぬことであった。戦後の荒廃の中、生きる支えを失い、よりどころと張りのない毎日を細々と生き続けていたのが、大半の日本人であったであろう。
そのような中、アメリカの占領軍が、「人生を楽しく創造的に」を理念とし、戦争で疲弊した日本各地の町や村に生活の息吹を呼び覚ますために試みたのが、戦後のレクリエーション運動の始まりである。

軍国主義時代の重苦しい雰囲気から解放された人々は、生きる証として、フォークダンスに代表されるアメリカ仕込みの多様なレクリエーション・プログラムに飛びついた。1946年12月に長崎でウィンフィールド・ニブロ氏によるスクエアダンスの指導が始まり、翌年からニブロ氏を中心としたスクエアダンス全国指導者講習会が開催されると、老若男女を問わず、フォークダンスは燎原の火のように爆発的な流行を見せた。

ただ、戦後の日本のレクリエーション運動は、国民の生きる希望の糧としての側面を持つ一方で、アメリカの占領政策に端を発する、戦後処理の行政・施策上の対処と密接に関わっていたという事実も否めない。GHQ(連合国軍総司令部)のCIE(民間情報教育局)による占領下の民主化政策の影響を発端に、それを引き継ぐ官制主導のレクリエーションの啓発活動が展開された時期でもあったといえよう。
しかし、戦時中は、大きな声で歌を歌うことも憚られ、まして男女が手をつなぐことなど考えすら及ばなかった人々にとって、自由に大きな声を出して笑っても、好きなことをしても誰からも文句を言われないということは、それだけでもありがたいことであった。

レクリエーション活動は、サイクリング、そしてペアレント(自宅を開放)を求めて各地を訪ねるユース・ホステル運動、さらにハイキングやキャンピングのような野外レクリエーションも紹介され、多くの人がこれに参加していった。

参考文献

『レクリエーション運動の五十年』(財)日本レクリエーション協会 編
『日本レクリエーション協会三十年史』遊戯社 編
(いずれも公益財団法人 日本レクリエーション協会 発行)